昭和六十年度 全国大会石沢奨学会理事長賞

◆◇今 翔 る 時◇◆◇

夜間部四年普通科 丸山 文子  

私は現在、スイミングスクールで2歳から小学校までの子供たちに水泳指導をしています。子供たちとの会話はまず、
 「こんにちは」
という元気なあいさつから始まります。そして、水慣れなどをしたあと、泳力基準の練習に入ります。
 「さあ、今度は顔つけ板キックだよ。その時の注意で、目はどうしてるんだった?」
 「開けてる」
 「そう、開けてるんだったねえ」
 「じゃあ、お口とお鼻からは?」
 「あわを出す」
 「そうだねえ、あわをたくさん出してね。それじゃあ、お顔はどこまでつけるんだった?」
 「耳の後ろ」
 「そう、耳の後ろまで、しっかりお顔を入れるんだったねえ。さあ、それでは、今の三つの注意をしっかり守って元気よく泳いでね。わかりましたか?」
 「はい」
 「もっと大きな声で。わかりましたか?」
 「はーい」
 こんな調子で、一時間の練習はあっという間に終わります。子供たちは、私に色々な事を話しかけてきます。私もなるべくそれに答え、少しでもコミュニケーションがとれるよう努力していますが、そうやって指導をしている間でも、ガラス越しに我子を見つめる親たちの熱い視線が、私にものすごい圧力のように、ずっしりと伝わってきます。子供たちの顔を見ていると、けなげでかわいくてたまりませんが、だからこそ指導員としてはそれなりに大変で、全く白紙のキャンパスに少しずつではありますが、色を塗っていく大切さとその責任をひしひしと感じます。
 そんな毎日を送りながらも、私の高校生活もあと三カ月余りというところまでやってきました。学校では、今度は私が子供たちと同じように、物を教えてもらう立場になります。でも、私の通っている学校は、スイミングスクールとは多少違っています。そこには子供たちのような輝く目も、はちきれんばかりの活気もありません。私がよく耳にする言葉は、「どうせ」という言葉と、「しようがない」という言葉です。この二つの言葉の中に、私は今の現実を見るような気がします。「どうせ定時制なんだから、全日制の連中よりは頭が悪いし、今さら真剣に勉強したって世の中が俺たちを評価する訳でもないんだから、勉強なんてしたってしょうがないんだ。そんなことより、適当に楽しくやって、一応高校の卒業免状さえもらえりゃ、それで上等だ。」
 この言葉の中には、私たち定時制高校に通うみんなが、否定しようとしてもしきれない何かが含まれているような気がします。そして、こうした考え方が今の私たちの毎日の学校生活に大きく影響しているのではないかとも思えるのです。「定時制」という言葉の響きは、かつてそれが「勤労学生」という、美談の代名詞であった頃に比べると、やや色あせて聞こえます。もちろん私は、みんながみんなそんな考え方をしているとは思わないし、思いたくありません。ただ私の言いたいことは自分を含めた多くの人が、「どうせ」とか「しょうがない」という言葉で自分で自分の心を偽ってしまい、もしかしたら、そのことにすら気がつかないまま、毎日を過ごしてしまっているのではないかと思えることの方がこわいのです。
 今、ふり返ってみると、私の生きてきた21年の中にも、そうした「どうせ」とか「しょうがない」といったことで安易に通りすぎてきてしまったことがいくつかあります。
 私には中学3年の時、どうしても行きたい高校がありました。体育課程を持つその学校は、陸上とバスケットを得意とする私には、とても魅力でした。しかし、入試直前に私はどうしてもその学校への進学を思いとどまらねばなりませんでした。父の働いていた会社が倒産したのです。憧れの高校に入学することばかり夢みていた私は、目の前が真暗になりました。それでも私は、いつかその学校に入学できることを信じて、一年待ちました。そして、やっとの思いで翌年その学校に入学しました。しかし、1年のブランクは大きく、得意だった陸上もバスケットも、そこでは全く通用せず、私はどんどん立ち遅れ、ついには退学するまでに至ったのでした。今にして思えば、どうしてもう少しがまんできなかったんだろうと思えるのですが、その時の私は「もうどうせ」というなげやり的な考え方に流されていました。大きな目的を失った私に残されたレッテルは、高校中退。中途半端な状態を断ち切るように、私は豊橋高校に又1年生として入学しました。人より遅れて入った私は、あせり、そして考えました。人に遅れた分だけ何とか頑張って、人並み以上に評価される道はないものかと。そこで私は、まず大学入学資格を取得することを考え、次に短大入試に臨むことにしました。そうすれば、私は私の友人たちに、遅れた分を取りもどすことができるのです。私は2年で高校を終え、短大に入学する為に、短い期間だったのかもしれないけど、とにかく一所懸命受験勉強をしました。しかし、今度も神様は私に微笑んではくれませんでした。そして、そのあとの一年は、やはり「どうせ私なんか……」「まあ、しようがないや」といった考えで、ただ何となく流されるように生活してきたのです。
 そんな中で、私はスイミングスクールの指導員という仕事に出会いました。大きな目標を失い、ただお金の為に毎日適当に楽しくやれればいいと、安易に考えて始めた仕事でした。しかし、続けていくうちに私はとても素晴らしいものを見つけました。そうです。ここに通って来る子供たちです。子供たちの笑顔が今の私を支えてくれていることに気がついたのです。
 ふり返れば希望も持てずに苦しんだことがありました。何も見出せずに涙したこともありました。でも、今は確信しています。私にも何かが出来るのだと。
 卒業をひかえ、自立について深く考え出した今、私は二つのことを考えています。一つは幼稚園教諭の資格を取得すること。そしてもう一つは、社会体育の勉強をして、良き指導者になることです。まさに私は、また新しい世界に飛び立とうとしています。たとえそれが、どんなに大変なことであろうと、私は私自身の力と可能性を信じて、精一杯努力していきたいと思います。現在の私にとって、子供たちは自分を写し出す鏡のようです。私はその素晴らしい鏡を通して、自分が自分らしく生きる為に努力していきたいと思います。新しい夢を追い求め、私なりのドラマを力一杯演じていきたいと思います。


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